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2011年04月18日

[リプレイ]独眼竜政宗キャンペーンシナリオ

独眼竜政宗のキャンペーンシナリオをソロってみました。

長いので続きからどうぞ

 キャンペーンシナリオは天正16年1月〜8月、史実の大崎合戦と郡山合戦の時期を扱っていますが、総兵力では伊達軍を上回る反伊達諸大名の大部分は情勢変化表によってランダムに参戦してくるという流動性の高いシナリオです。

初期配置
 反伊達方が先配置。総兵力142戦力のうち活性化しているのは大崎15戦力のみ。ゲーム的に考えると大崎軍の全滅を避けるために軍勢は最上領へ逃げ込むという選択肢もあるが、今回はそれは避けて宮崎城で籠城してみることとしました。
 反伊達方で配置の選択肢が大きいのは最上軍です。縁戚関係による特別ルールによって伊達軍は先制攻撃を受けるまで最上軍の城や部隊に隣接できないという制限があるので、これを利用して反撃を受けない状態で圧力をかけることもできるし、好きなタイミングで開戦することも、背後を気にせずに伊達方の中小大名を攻めることもできます。
 最上義光は統率力と野戦能力には文句がないのですが、行動力と総兵力の点で単独で伊達氏に当たっても勝ち目がないため、今回は1ユニットを米沢の牽制に、4ユニットをやがて参戦するであろう本荘氏の牽制に残し、最上義光の主力は小野寺攻めを想定して鮭延城に配置しました。
 南陸奥の葦名、佐竹等は本城への配置が固定で編成をいじる余地もほぼないので特に考えることはありません。

大崎氏 15戦力
最上氏 33戦力(非活性)
葦名氏 36戦力(非活性)
佐竹氏 32戦力(非活性)
白河氏 8戦力(非活性)
相馬氏 9戦力(非活性)
岩城氏 3戦力(非活性)
二階堂氏3戦力(非活性)
石川氏 3戦力(非活性)

110417a.jpg
(伊達の本拠米沢城と最上の本拠山形城の距離はわずか8ヘックス)

 伊達方は総兵力113戦力、うち74戦力が活性化中。今回は極力短時間で大崎氏を征服すべく大内定綱1ユニットを最上国境の足止めに残し全軍大崎領との境の松森城に配置しました。

伊達氏 55戦力
小野寺氏12戦力
長江氏 2戦力
氏家氏 2戦力(大崎氏謀反軍)
葛西氏 22戦力(富沢貞連3戦力のみ行動中)
本荘氏 6戦力(非活性)
庄内一揆12戦力(非活性)
長沼氏 2戦力(非活性)

110417b.jpg
(開始時)

1月1週(雪)
 情勢変化でいきなり大崎領の北に接する伊達方の有力大名葛西氏が行動開始、そして大崎家中で論争(行動力半減)。大崎氏は本城が平地にあって弱いので山城の宮崎城に移動して籠城するつもりでしたが、行動力半減だとたどり着けない…。これは配置ミスかと思いましたが、もっと酷いのが伊達軍でした。大崎戦線に配置した伊達軍は本城米沢との間に必ず山地があり雪のために連絡線が切れるのですが、籠城配置にするのを失念していました。だが、面白いのでそのまま続行。結局、伊達成実と片倉重綱は士気回復に殆どの時間を費やし、政宗の本隊だけが大崎の本城名生城に隣接します。野戦で攻撃するものの川越のため1損害の交換に終わります。

1月2週(大雪)
 大雪と情勢変化で最上義光の策謀で伊達軍の行動力は全軍1。これを見て大崎軍は宮崎へ強行突破を図ります。政宗は無理に攻撃せず士気回復に専念、片倉隊が鶴楯城の包囲に入り、早速耐久8まで落ちます。

1月3週(大雪)
 伊達軍は士気回復に専念。旧ルールだと連絡線途絶時の士気回復は行動力判定のため、成実隊は失敗率が高く動きが鈍いまま。葛西軍と長江軍が涌谷城の包囲を始めます。

1月4週(大雪)
 情勢変化で米沢城で騒動が起き、伊達政宗が帰還。損害を受けていた1ユニット以外は置き捨てていき、留守政景隊と白石宗実隊に再編します。鶴楯城は士気-2まで落ちました。

2月1週(雪)
 伊達の大将大内定綱が謀反を起こし、葦名軍に合流。名生城も包囲が始まり、大崎城全域で包囲戦が進行。宮崎城にも伊達成実隊が迫ります。

2月2週(大雪)
 伊達方だった長江勝景が離叛して反伊達方に。葛西軍が全軍集結しているため涌谷城の包囲には影響なし。包囲結果で士気低下が連発して鶴楯城が降伏勧告で開城した他、涌谷城や名生城もボロボロの状態に。

2月3週(大雪)
 葦名氏が行動を開始するも、雪が続いており、行動力2の指揮官しかいない葦名軍としては連絡線の切った状態で伊達軍の正面に足すのは厳しい。伊達方の長沼城をせめて得点を稼ぐこととする。

2月4週(大雪)
 最上氏行動開始。謀反を起こした大内定綱が伊達の本城米沢に迫ります。1ユニットなので攻城戦はできないものの、連絡線を遮断されると雪が溶けた後にやっかい。大崎方面へ向かおうとしていた政宗隊(5戦力)が引き返そうとするも雪の中の山越えで難渋します。

3月1週(大雪)
 佐竹領南方で内乱(1ユニット除去)。参戦すらしていないのに。士気低下が著しかった涌谷城、名生城が降伏勧告により相次いで開城。米沢南東の山地で大内定綱と伊達政宗の戦いが始まります。

3月2週(雪)
 情勢変化なし、戦況も変化なし。

3月3週(好天)
 大崎家中で論争。宮崎城は落城寸前で小田原評定どころの情勢ではないでしょう。葦名は長沼攻め、最上は小野寺攻めを開始。大内定綱は戸山城まで下がります。

3月4週(大雪)
 寒さがぶり返し葦名の進軍が遅れます。宮崎城が遂に開城し、大崎氏滅亡。部隊の全滅と大崎領4城の得失によって伊達軍+22点、反伊達軍-7点都合、29点分の差が開きます。やはり、ゲーム的な作戦となっても大崎軍は最上領に脱出しないと得点的には厳しいと思われます。

4月1週(好天)
 本荘氏行動開始、蜂起した庄内一揆によって最上軍の楯岡満茂隊が包囲される。これは不用意な配置でした(庄内一揆の配置ルールをあまり考えてなかった)。先手を打って越後に攻め込むのでなければ、一揆が出現してから増援を送り込んだ方が良さそうです。ともかくも、大将を含む4ユニットは見殺しにできないので最上義光を反転させて出羽に向かいます。その後ろを送り狼となった小野寺軍が逆侵攻して鮭延城の包囲を伺います。
 大崎戦線から転戦してきた留守政景が阿子島城を、片倉景綱が戸山城を包囲。葦名軍は強襲を繰り返して長沼氏を攻め立てますが、伊達軍の進攻速度はそれを上回っています。

4月2週(好天)
 葛西領内で謀反発生、2ユニットが一時的に戦線離脱。相馬氏行動開始。相馬義胤は勇猛な武将なのだが、戦力が9しかないのが惜しまれる。旧ルールでは連絡線が長すぎて遮断も難しいので、葦名軍と合流すべく西進することに。
 白石隊を再吸収した伊達政宗が長躯山地を突破して黒川城まで到達したところで、行動力に劣る葦名軍の滅亡が確定的になったので今回はここで終了することにしました。大崎の失点分を補おうとして兵力を分散しすぎたようです。葦名、最上で南北から米沢を締め上げていたら面白かったかもしれません。

110417c.jpg
(終了時)

110417d.jpg
(平定された大崎戦線)

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(勝敗を決した会津戦線)

110417f.jpg
(戦闘継続中の庄内平野戦線)

 終了時点で攻城戦が行われていたところは、長江氏小野城(耐久4)、葦名氏阿子島城(士気−1、耐久7)、同戸山城(耐久9)、長沼氏鴫山城(耐久5)、最上氏鮭延城(低下なし)。
 終了時の勝利点は伊達方22点、反伊達方-6点。ただし、長江氏の寝返りで一時的に反伊達方加点されていた1点は早晩取り替えされて、結局大将の損失分がマイナスになりそうではあります。

(追記)
このソロプレイはツイッターで経過を垂れ流しながらやってました。
その生ログがこちら。
http://togetter.com/li/125256
posted by AMI at 01:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国群雄伝
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